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【研究者の肖像Vol16-連載①】人的ネットワークがもたらす知恵と力はとても大きい。「研究の未来」を拓くのは、高度なチームワークだと思う 竹内 正弘

人的ネットワークがもたらす知恵と力はとても大きい。
「研究の未来」を拓くのは、高度なチームワークだと思う
北里大学 薬学部 臨床医学(臨床統計学) 教授
ハーバード大学公衆衛生学大学院 生物統計学 教授
スタンフォード大学医学部 医薬・医療機器ラボ 日本拠点長
博士(理学)

新薬の開発や承認において欠かせない臨床統計学。このエキスパートである竹内正弘は、世界的な視野に立ち、長年にわたって業界を牽引してきた。大学入学から通算12年間をアメリカで学び、日本人として唯一、世界の医薬品評価の最前線にある米国食品医薬品局に約8年間在籍。志す道を決めたのも、キャリアをスタートさせたのもアメリカという異色の立脚点を持つ。現在は北里大学をはじめとする活動拠点で、再生医療製品や革新的医薬品の開発支援に取り組み、人材育成にも尽力。培ったネットワーク力と何事にもおもねない精神を〝持ち味〞に、現場を奔走している。

アメリカ留学を機に、憧れの学究生活を歩み始める

福井県福井市で生まれ育った竹内は、成人してアメリカに渡るまで同地で過ごした。特攻隊の生き残りだった父親は、自身の苦労から息子の将来を案じ、教育には熱心だったという。「親が喜ぶと思って」勉強に励み、進学校に進んだ竹内だったが、本人曰く「先の見えない悶々とした日々を送っていた」。

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本取材は、2018年8月31日、
竹内氏の研究室がある北里大学白金キャンパス
「北里研究所/北里大学プラチナタワー」
(東京・港区)で行われた

数学が好きだと自覚したのは中学からです。サイン、コサインなどといった記号がとにかく美しく思えて。この頃に知ったフランスの数学者、エヴァリスト・ガロアにも感化されました。革命家でもあった彼は、自分の彼女の名誉を守るために決闘して亡くなったのですが、そこにも憧れましたね。

進学校の藤島高校に入ってからも数学好きは変わらず、自分流に勉強していました。記憶に強く残っているのは、なかなか解けなかった三角関数の問題を、1カ月考えて自分で解いたこと。先生に聞いて数式を使えば簡単に答えは出るけれど、どう解いていくのかを考えるのが数学であり、勉強だと僕は思っていたんです。でも、こういう調子だと時間がかかって周りから遅れるわけですよ。成績は下がり、親や先生から怒られる。中学から続けてきたサッカーも「やってどうするんだ」と言われ、進学校ゆえに「いい大学に行くことが第一義」というムードでした。

反発を覚え、自分の行き場が見つけられない僕は、よく本を読んでいました。自分の世界にどっぷり浸かる、ある種の引きこもりですよ。家が裕福ではなかったし、お金を気にせずできるのは「自由に考えること」。一時は哲学者になりたいと思っていました。アカデミアへの憧れはこの頃からあったんでしょう。でも、これも「食っていけるのか」という話で、周りからはうるさく言われる。悶々として、人生って何だろうとずいぶん考えた時期でした。

「何をすればいいのか」。結局わからないままであった竹内には、具体的な進路イメージもなかった。父親が地元・福井で繊維業を興したのはちょうどその頃である。「本を読むばかりでなく、少しは世の中を見なさい」という言葉を受け、竹内は高校卒業後、父親の会社を手伝うことになった。

数年経って事業が順調に回り始めた頃、親父が「大学進学を棚上げにさせて悪かった。これからは英語が必要になる時代だから、アメリカに行ったらどうだ」と言ってくれた。この時話に上がったのが、6カ月の語学留学でした。僕としてはカリフォルニア大学とかハワイ大学に留学したかったのですが、両親からすると「遊びに行く」と映ったようで(笑)、最後はオレゴン大学に落ち着いたというわけです。

新しい環境は刺激的でしたし、同じく語学留学に来ていた妻と出会ったのもここです。居心地がよく、6カ月で福井に帰る気には到底なれなかった。ならば、このまま〝大学生〞になればいい。そう考えて親を説得し、懸命に勉強し、オレゴン大学の理学部数学科に入ったのです。ここからようやく、僕の本当の人生が始まりました。

入学した年に結婚したんですけど、大学側が夫婦用の寮として2LDKのアパートを貸してくれたのです。あと必要なのは学費と食費でしたが、当時は総額で1カ月5万円もかからなかったと思います。NIKEの創業者、フィル・ナイトが学んだ大学で、大学の人たちが皆、NIKEのシューズを履いてランニングしていたことを覚えています。僕もそれに倣って走っていると健康にはなるし、好きな数学を一日中勉強できるんですから……もう人生最高でしたよ(笑)。

※本文中敬称略

公衆衛生学の道へ。〝初の日本人〞としてFDAで実績を上げる

大学院のクラスにあった数理統計学を取ってみたら、それが面白く、竹内は「いずれ数学で博士号を」と考えていた。一方で、同時期に「生物統計学」という学問があることも知り、医療関係の仕事に携われる可能性を感じ、心が動いたという。「理論だけをやるより、社会に貢献できることを学んだほうがいいんじゃないか」と。

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1981年、オレゴン大学在学中、
先輩の卒業式に列席した

統計自体は同じだけれど、理論だけをやって統計を究めるのか、生物統計、いわゆる公衆衛生をやって患者さんや社会のために貢献するのか。その違いがあります。悩みましたが、数理統計を生かして医療関係に進めればと、後者を選択しました。それで、生物統計学を学べる大学にいくつかアプライし、受け入れてもらったのがボストン大学大学院の医学部だったのです。

フラミングハム・スタディという虚血性心疾患の追跡疫学調査が、ボストン大を中心にして行われていた時代で、公衆衛生の重要さを深く学ぶことができました。フラミングハムはいわゆるブルーカラーの町で、僕は隣町に住んでいたんですけど、高血圧や高コレステロールと、脳卒中などの疾患関連研究を間近に見られたことは大きかった。この分野で貢献したい、専門家を目指すと志が固まったのはこの時です。

修士課程を修了した後は、そのままボストン大でドクターを取るつもりでしたが、お世話になった教授が「いろんな場があるのだから、外へ出るのもいい。ボストンにはハーバードもあるよ」と。さすがにハードルが高いと腰が引けていたのですが、その教授がハーバードの先生につないでくださった。その方が生物統計で非常に高名なマービン・ゼレン教授で、彼からインタビューを受けたのです。結果、ハーバード大学公衆衛生学大学院に進んだわけですが、振り返れば、僕は幸運な出会いとタイミングによって、導かれるように道を歩んできたように思います。そして妻の支え。オレゴン大に入学してからハーバードでドクターを取得するまで、僕にはまともな稼ぎなどなく、生活は妻の世話になりっぱなし。だから一生頭が上がらない(笑)。

帰国し、日本の製薬会社に勤めることを視野に入れていた竹内だったが、この時もある種の〝導き〞があった。担当教授であったジェームズ・ウエア氏の差配によって、米国食品医薬品局(以下FDA)の薬品評価研究部門に進路を取った竹内は、今しばらくアメリカに留まることになる。

ウエア先生は「ハーバードに残って研究を続けてもいいよ」と言ってくださったんです。彼に限らず、そしてハーバードに限らず、僕は自分の世界に生きるカッコいい学者や研究者とたくさん出会ってきたので、やっぱりアカデミアに憧れを抱いていました。でも正直、生活を考えれば企業に勤める道も無視できないなぁと。

ある時、ウエア先生に「日本に帰って製薬会社に勤めようかとも考えている」と話をしたら、えらい剣幕で怒られましてね。「誰のおかげでここまでこれたんだ!アメリカの血税だぞ」と。僕は先生の下でSix Cities Study(米国6都市における大気汚染と死亡率の関係)の解析をずっとやっていて、その研究資金はアメリカ国立衛生研究所から出ていたんです。僕の授業料や生活費の一部は、この研究費から賄われていたので、確かに国の税金で育ててもらったわけです。「アメリカ国民のために少しは汗をかけ」と言われれば、おっしゃるとおり(笑)。それで先生が、FDAに「卒業生を雇ってくれ」と話を進めたという経緯なんです。〝お役所〞なので、本来なら外国人がアメリカの製薬会社のデータを解析するのは敬遠されるのですが、タイミングがよかったんですよ。折しも、タックリンという世界初のアルツハイマー治療薬が出てきた頃だったのですが、FDAでは解析がうまくいっていなかった。そこに「使えそうだ」と期待されたのが、僕がハーバードで学び、研究してきた解析法だったのです。実際、その手法で解析を進めた解析結果がFDAの見解として公表され、タックリンの審査、承認に携わることができたのは、僕自身にとっても大きなステップアップとなりました。本当のことをいうと、職員になる前、僕はFDAが何たるかをちゃんと知らなかった。それが後の礎を築く場になったのですから、人生わからないものですよね。

– 次回②へ続く-

Profile

biographies01北里大学 薬学部 臨床医学(臨床統計学) 教授
ハーバード大学公衆衛生学大学院 生物統計学 教授
スタンフォード大学医学部 医薬・医療機器ラボ 日本拠点長
博士(理学)
竹内 正弘

1955年4月24日 福井県福井市生まれ
1984年6月 オレゴン大学 理学部数学科卒業
1986年6月 ボストン大学大学院医学部 修士課程(公衆衛生学専攻)修了
1991年11月 ハーバード大学 公衆衛生学大学院 博士課程(生物統計学専攻)修了
   12月 米国食品医薬品局(FDA)入局
1999年4月 北里大学薬学部 臨床統計部門教授(講座開設)
2006年4月 北里大学薬学部 医薬開発部門教授(講座開設/2016年3月まで)
2008年4月 北里大学と北里研究所の統合により現職
2012年11月 ハーバード大学 公衆衛生学大学院 生物統計学教授(現任)
2014年4月 神奈川県非常勤顧問・レギュラトリーサイエンス推進担当(現任)
2015年8月 特定非営利活動法人 先端医療推進機構 特定認定再生医療等委員会
東京 委員長(現任)
2015年9月 かながわクリニカルリサーチ戦略研究センター長(現任)
2016年9月 スタンフォード大学医学部 医薬・医療機器ラボ 日本拠点長(現任)

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