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【新進気鋭の研究者Vol.7】多くの“解”の中から最適を選択する、最先端の「意思決定技術」を探究 日本アイ・ビー・エム株式会社_恐神貴行

日本アイ・ビー・エム株式会社 東京基礎研究所
シニア・リサーチ・スタッフ・メンバー 米国学術博士 恐神貴行

社会にインパクトを与える研究を!
多くの”解”の中から最適を選択する、最先端の「意思決定技術」を探究

「動的ボルツマンマシン――」。
 一般的には馴染みが薄いであろうこの言葉が、2015年9月、脚光を浴びた。これは、新たに考案された人工神経ネットワークだ。従来の同ネットワークが、動画のように時間の経過とともに変化していくデータの認識や処理を苦手にしていたのに対し、時系列に並んだデータのパターンを学習、再現できるという特長を持つ。当該研究成果が論文として発表されるや否や、将来、映像や音楽、言語などといった時系列データを認識する人工知能に応用され、社会に大きなインパクトをもたらす可能性を秘めた技術として、世界的な注目を集めたのである。この技術を考案した研究者の一人が、IBM東京基礎研究所(以下IBM東京基礎研)の恐神貴行氏だ。恐神氏はいかにして「動的ボルツマンマシン」を生み出し、そこにはどのような思いが込められていたのか。その背景に迫った。

誰も解けない問題を自ら編み出した技術で解決に導きたい

世の中には、大きく分けて2つのタイプの人間がいると思われる。一つは、新たな道を切り開くことにやりがいを感じ、社会を先導したり、変革したりすることに喜びを見いだすタイプの人間である。もう一つは、先駆者が切り開いた道を整備したり拡充したりすることによって、多くの人がその道を利用できるようサポートすることに長けたタイプの人間だ。

 どちらのタイプが優れ、どちらのタイプが劣っているかといった矮小な話をしているわけではなく、いずれも社会の発展にとって必要不可欠な存在であることはいうまでもない。ただ、難易度の高さでいえば、やはり前者に軍配が上がるだろう。

 本記事の主人公、IBM東京基礎研で研究員を務める恐神氏は、確実に前者を志向するタイプの人物である。それは、入社後3年間の自身のパフォーマンスを評した次の言葉からもわかる。「本来、研究部門で研究者が果たすべき役割として期待されているのは、その時点では解決することが難しい課題や問題を、新しい技術を生み出すことによって解決に導くことです。にもかかわらず、あの頃の自分は既存の技術にとらわれすぎて、新しい技術を生み出すことができていませんでした」

 恐神氏はそう述懐するものの、かかわったプロジェクトが失敗に終わったわけではなく、むしろ大成功を収めた。当時、恐神氏が携わったプロジェクトは、医療機関や鉄鋼会社の業務効率を最大化するソリューションの研究開発である。いずれも、高度な最適化手法を応用したERPを提供でき、顧客からも高い評価を得た。

「ただ、〝研究〞としての価値が高かったのかと聞かれれば、やはり疑問符が付きます。解けそうな問題を、すでに存在していたいくつかの一般的な技術を活用して解いたにすぎず、新しい技術やモデルを自分の力でつくって問題を解決に導いたわけではなかったからです。そういった意味においては、研究者として胸を張れる成果ではなかったと思っています」

 山登りに喩えるなら、すでに誰かの手によって開拓されたルートを利用して、より速いスピードでその山を登ったようなものだ。研究者として道を歩き始めた以上、できることなら自分でルートを切り拓き、〝未踏峰〞に登頂したい—。当時の恐神氏は、そんな心境だったのかもしれない。

大学在学中、「計算量理論」にのめり込む

 恐神氏は、1975年に札幌で生まれた。父親の転勤に伴い日本各地を転々とする生活を送るなかで、いつしか理系科目に優れた才能を発揮するようになっていった。

「研究者になりたい、と明確に意識した瞬間やきっかけがあったわけではありません。数学や理科が好きで、それを純粋に追究していった結果が今につながっています」

 高校卒業後、東京大学に進学し、工学部電子工学科で学んでいた恐神氏は、4年生になってから、一つの転機を迎えることになる。

「IBM東京基礎研でハードウェアの研究開発に携わりたいと思い、日本IBMを志望しました。最終面接でお会いしたIBM東京基礎研の当時の所長から、東京大学理学部情報科学科の計算量理論の講義を薦められ、履修してみたのです。これが予想以上に面白く、すぐにのめり込みました」

 計算量理論とは、問題を計算することの難しさを研究したり議論したりする学問で、例えば、コンピュータにある問題を解かせる際に、その問題がコンピュータにとって簡単なのか、それとも難しいのか、さらには解くのにどれくらいの時間がかかるのか、といったことについて探求する学問だ。

 東京大学を卒業した恐神氏は同社に入社し、IBM東京基礎研で理数科学に携わるようになった。そして、前述したように、駆け出しの研究者として3年間を過ごした後、当時同社が社員向けに実施していた「社内留学制度」を利用して、米国カーネギーメロン大学へ留学する。

米国の大学で、計算機科学の博士号を取得

米国へ渡った恐神氏は、カーネギーメロン大学入学後に受けた最初のオリエンテーションで、目から鱗が落ちるような経験をする。一人の教授が披露してくれた〝確率〞に関する話に、衝撃を覚えたのである。

 「その一つは〝バスの待ち時間〞の話でした。平均10分間隔でバスが停留所に到着するとして、乗客が停留所にランダムな時刻にやって来てバスを待つとします。乗客は平均何分待てばバスに乗れるか、という確率に関するテーマでした。多くの人は、直感的に『平均5分』という答えをイメージすると思うのですが、数理的に厳密に解析すると、必ず『5分以上』の値になる。これが何を意味するかというと、人間の直感は必ずしも正しいわけではなく、きちんとした数理モデルをつくり、その結果を見てからでなければ、正しく〝意思決定〞することができないということを示しています。これは、計算量理論による問題の難しさとはまったく異なる類の難しさだと思いました。この時に聞いたこの話は、私にとっては大きなサプライズで、後に『意思決定技術』の研究に取り組むことになる、きっかけの一つになりました」

 4年の留学期間を経て、コンピュータ・サイエンスの博士号を取得した恐神氏は、2005年に日本に帰国。以後、IBM東京基礎研に所属し、再び研究に励む日々を送るようになる。

新技術の〝種〞を自己プロジェクトで生み出していく。

 日本に戻った恐神氏は、数理科学とIT技術、そして米国で身につけた知見を活用しながら、将来を確率的に予測してビジネスの分析や最適化の実現を支援する「意思決定技術」、さらには「ビッグデータ」のアナリティクスなどの研究に取り組むようになる。「帰国後から一貫して、様々な要素を確率的に捉えてモデル化し、解析したうえで最適化する、といった研究を続けています。例えば、Webシステム、自動車の設計プロセス、運転者の行動を確率的にモデル化する交通シミュレーションのプロジェクトなどに携わってきました」

 聞けば、恐神氏が手がける研究やプロジェクトの形態は、大きく2つのタイプに分類されるという。一つは、クライアントからの依頼や顧客への提案で発生する研究、もう一つは、自らテーマを定めて〝秘密裡〞に進める新規性の高い自主的研究だ。

「IBM東京基礎研では、やるべきことをやったうえで、空いている時間には自身の興味のある研究に取り組むことができます。そこで、面白いアイデアが浮かんだら、積極的に取り組むようにしています」

 現在も、複数のプロジェクトに携わりながら、それらの合間を見つけては将来を見据えた自主研究に密かに取り組んでいるという。そんな恐神氏を研究活動にかりたてる原動力は、かねてから抱いていた「自分が編み出した新技術で、世の中にインパクトを与えたい」という強い思いだ。

「新しい技術や研究を会社やクライアントに提案しようとしても、そもそもその〝種〞となるものが存在しなければ、当然ですが提案自体がつくれません。その〝種〞は、いわゆる『裏プロジェクト』で密かにコツコツと育んでいくことでしか生み出せないと思っています。これから研究者を目指す若い人にも、新しいアイデアを思いついたら、『表プロジェクト』の合間に自分でどんどん研究を進めていってほしいと思います」

 実は、画期的な技術として注目を集めた「動的ボルツマンマシン」(詳細はコラム参照)も、もとはといえば、誰かからの依頼や命令で実施した研究ではなく、密かにスタートさせた自主研究によって生み出された成果である。
「人の非合理的な選択行動をモデル化し、データから学習するという研究テーマに取り組んでいました。そこで活用したのが『ボルツマンマシン』と呼ばれる技術です。この時、当時のプロジェクト・メンバーで論文の共著者でもある大塚誠さんが、こんなこともやりたいと持ってきたのが『動的ボルツマンマシン』のアイデアでした。そこで、人の選択行動モデルの研究を進めながら、彼との共同で『動的ボルツマンマシン』の研究を細々とスタートさせました」

 そして15年9月、研究成果(本研究成果は、国立研究開発法人科学技術振興機構の戦略的創造研究推進事業CRESTにおいて得られたもの)をまとめた共同研究論文「スパイク時間依存シナプス可塑性により文字画像の列を記憶する7つの神経細胞」がイギリスの科学誌『サイエンティフィック・リポーツ』に掲載されると、瞬く間に世界的な注目を集めるようになった。また、日本IBMでもこの論文成果を発表。この一件からも、「動的ボルツマンマシン」の新規性やインパクトの大きさをうかがい知ることができるだろう。これには、恐神氏も少なからず驚いたようだ。

「日本IBMが〝論文〞そのものに焦点を当てたプレスリリースを出すことはめったにないことなので、本当にびっくりしました」

 現在、恐神氏は「動的ボルツマンマシン」の改善や応用を手がけるとともに、これまで同様、「裏プロジェクト」による新技術の開発や研究にも取り組んでいる。

 ここで、話題は冒頭に戻る。はたして恐神氏は、これまでの研究者人生に満足しているのだろうか。
「入社直後の3年間に比べれば、その後に手がけた研究では、自分の力で新しい技術を生み出し、解くことが難しい問題を解決に導いてきた、という自負があります。だからといって、100%満足しているかといえば、必ずしもそうではありません。もしかすると、研究者として完全に満足できる瞬間は、永遠にめぐってこないかもしれませんが、その瞬間が訪れることを信じて、誰も挑戦していない領域での研究に、今後も積極的にチャレンジしていきたいと思っています」

 恐神氏は、これからも未踏峰を追い求め、道なき道を切り開いていく。

His Research Theme
コンピュータがより生物に近い学習をする「動的ボルツマンマシン」の開発に成功
「動的ボルツマンマシン」による学習例。恐神氏は、「動的ボルツマンマシン」のニューロンに文字列のパターンを学習させ、イメージ全体の再現や補完を行わせる検証実験を実施した。13万回にも及ぶ訓練の結果、見事に「SCIENCE」という文字列がコンピュータ上に正しく再現された。また、「SCIENCE」の学習後に、誤りを含む文字列を与えたところ、スペルミスを検知する結果も得られたという(Credit: Scientific Reports)

「動的ボルツマンマシン」は、時間の経過とともに変化する”動的”なパターンを学習できる人工神経ネットワークモデルで、より生物に近い機械学習を実現する技術だ。
 従来の同ネットワークは、心理学者のドナルド・ヘッブ氏が提唱したニューロン同士の結合メカニズムに関する「ヘッブ則」をモデル化した「ボルツマンマシン」を基礎としているが、これは静的な状態でのニューロン結合を想定したもので、動的に変化するパターンの学習には対応していなかった。
 近年の研究で、実際の生物は、「ヘッブ則」に時間的要素を取り入れて精緻化した「スパイク時間依存シナプス可塑性(STDP)」という規則に従って学習することが確認されており、「動的ボルツマンマシン」ではこの「STDP」をモデル化し、時間変化するパターンを生物のように学習して再現することを可能にした。
 7個の人工神経で構成される「動的ボルツマンマシン」に対し、「SCIENCE」の文字画像の時系列とその逆順の時系列を記憶するよう訓練し、どちらかの時系列の一部を手がかりとして提示すると、対応する時系列全体を想起させることに成功した(図参照)。将来的には、渋滞予測、文章校正、監視カメラでの異常検知など、社会の様々な場面での応用が期待されている。

コラム内画像は論文『Seven neurons memorizing sequences of alphabetical images via spike-timing dependent plasticity』(Takayuki Osogami、Makoto Otsuka)から引用


おそがみ・たかゆき
1998年、東京大学工学部電子工学科卒業後、日本アイ・ビー・エム株式会社に入社。2005年、カーネギーメロン大学でコンピュータ・サイエンスの博士号を取得。帰国後はIBM東京基礎研究所に所属し、数理科学とITを活用した意思決定技術、ビッグデータのアナリティクスの研究などに従事。科学技術振興機構が進めるCREST(戦略的創造研究推進事業)の政府プロジェクトのグループ・リーダーも務めている。
日本アイ・ビー・エム株式会社
東京基礎研究所
設立/1982年4月
所長/福田剛志
所在地/東京都中央区日本橋箱崎町19-21
問い合わせ先/IBM東京基礎研究所
http://www.research.ibm.com/labs/tokyo/

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