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【研究者の肖像Vol4】「たとえリスクを取ってでも、時には一か八かの冒険に挑む。」日本のAI研究の第一人者_松原仁

たとえリスクを取ってでも、時には一か八かの冒険に挑む。
人生のどこかで、その気概を発揮するのが研究者なのだと思う。
公立はこだて未来大学 副理事長 システム情報科学部 複雑系知能学科 教授 博士(工学)
松原仁

昨今、AI(人工知能)の発展が目覚ましい。コンピュータ囲碁が、ついに世界トップ級のプロ棋士に勝利したかと思えば、他方では、店頭で来客案内をするロボットや自動運転車などの開発が加速し、産業界もAIに大きな期待を寄せている。日本のAI研究の第一人者である松原仁は、まだこの領域が冷遇されていた1980年代から研究に携わり、年以上にわたって前線に立ち続けてきた。なかでもコンピュータ将棋の研究や、ロボットによるサッカーのワールドカップ「ロボカップ」の立ち上げなど、自らが提唱するゲーム情報学を通じたアプローチで高名だ。常に先陣を切ってきた松原は今、AI研究対象を「理性から感性へ」とシフトし、また新たな領域に挑み始めている。

基本は理系ながら、読書、スポーツなど多彩な力を発揮

人間のような心を持ったロボット、鉄腕アトム。多くの子供たちが〝アトム好き〞のなか、松原少年の心を捉えたのは、その生みの親である天馬博士のほうだった。「大きくなったらエンジニアになる」。そう胸に秘めたのは小学生の時。以来、松原はこの道を真っ直ぐに歩み続けてきたのである。

「アトムをつくるのはどんな人たちなのか」。それがエンジニアであると教えてくれたのは、やはり理科系である父親でした。例えばおもちゃにしても、外国で買ってきた物理運動計算機なんかを渡されたりしていたので、家のなかは何となく理系ムード。僕も弟もそろって理科系に進んだのは、極めて自然な流れだったと思います。

僕はおとなしい子供でね、勉強、スポーツともにパッとせず、欲もないものだから、全然目立っていなかった。それが変わり始めたのは、小学校高学年あたりからでしょうか。母親が、近所の私塾に僕を通わせるようになり、そこから急に成績が上がったんです。理由はよくわからないのですが、僕は一人きりでいるのが苦ではないので、勉強の道具を与えられれば黙々とこなす、そんな感じでしたね。

その後に入塾した中学進学塾でも、思いの外成績がよく、結果、武蔵中学校に進学し、そのまま高校時代までを過ごしました。実は、今の筑波大附属駒場中学にも受かったのですが、父親が強く武蔵を推したんですよ。私立で授業料がうんと高いのに(笑)。バスケットボールが強いというのがその理由で、父親自身、学生時代にバスケでインターハイ優勝した経験があるものだから。なので「武蔵はいいぞ。バスケをやれ」と。始めてみるとこれが面白くて、練習は日に10時間やるようなハードさでしたけど、夢中になりました。まさにバスケ漬けの生活。一応、都大会で優勝し、全国大会に出場するところまではいったんですよ。

一方で、読書や映画にも造詣を深めていた松原は、早くからフロイトに興味を持っていたという。『精神分析入門』や『夢判断』などの代表作を「わからないなりに、すごいと思って読んでいた」。人の心を科学的に分析する――それが「天馬博士と結びついたような感じ」で、松原は、高校生の頃から人間の知能というものに強い関心を寄せるようになっていた。

フォークソングで一世を風靡した北山修さん。僕はファンだったんですけど、彼は大スターでありながら、歌をやめて精神科医になるんですね。それも、興味を抱くきっかけになりました。
「医学部に行って、精神科医になるか」。そう考え、実際、大学受験でも医学部をいくつか受けたんですよ。でも、6年間ずっと普通の医者の勉強をするのは大変だなぁという思いもあり、結局は、もう一方で合格した東大理Iに進むことにしたのです。

人工知能という言葉は、何となく聞いた覚えはあったものの、当時は東大に限らず、日本全体でも学問として扱われていなかった時代です。いろいろと勉強するなか、僕がやりたいことはコンピュータサイエンスの一分野だろうと見当をつけ、進学振り分けの際に選んだのが情報科学科。まだ設置されたばかりの頃で、新しいことができそうだと、人気も倍率も高かった科です。
 最初に興味を持ったのは画像で、画像理解、パターン認識といわれるもの。

ちょっと余談になりますが、研究者間でよく交わされるジョークに、「研究者は、自分の苦手なことを研究する」というものがあるんです。例えば、画像認識の研究者には近眼の人が多かったり、音声認識の研究者には耳の悪い人がいたりする。実際、僕は子供の頃からひどい近眼なので、無自覚ながら、自分の苦手分野を補完しようという意識が働いたのかもしれません。ちなみに、推論を研究する人は、「推論が苦手なのだから頭が悪い」という話になる。まぁ、これはオチですけどね(笑)。

「確立されていない学問」だった時代から、AI研究に邁進

大学院で工学系に進んだのは、研究テーマの一つに人工知能を挙げていたロボット工学者、井上博允教授の存在を知ったからだ。今では考えられないが、当時AIは、日本では「エスタブリッシュされていない学問」であり、研究する人など皆無に等しかった。そのなか、細い線をたぐるようにして、松原は井上研究室に入ったのである。

人工知能学会は86年にできたのですが、僕が大学院に進んだのはその5年前。この5年は大きい。周りの学生にもやりたいという人は全然いなかったし、「人工知能などまともな学問じゃない。それをやるのは人間のクズだ」と。ある先生に、本当にそう言われたんですよ。そもそも知能は、研究目標や対象がつかみにくいから、何だか怪しいオカルトのようなものに映っていたんでしょう。

井上先生は、のちに僕が入る電総研(電子技術総合研究所)にいらした方で、MITに派遣された時に、AIラボというものを見てこられた。「何やら面白そうだ」という感触を得た先生は、研究テーマにAIを加えたというわけです。その井上研究室に「AIをやりたい」と希望して入った僕は、実質、AIの学生第1号でした。

周囲からは異端児扱いされながらも、逆にいえば、よくも悪くも権威的なものがまったくなかったから、そのぶん自由と面白さがありましたね。研究室以外の活動として、AIに夢を抱く学生たちが自主的に始めた「AIUEO(アイウエオ)」という勉強会に参加したり、若い哲学者たちと議論するような場をつくったり、枠を超えた意見、情報交換はとても刺激的でした。

あと、僕は大学3年の頃から、コンピュータを使って将棋のプログラムを書き始めていたんです。すごく複雑な将棋というものを、最初の例題にするなど無謀な話なんですが、趣味的にずっと続けてきました。井上先生からは、「君がゲーム好きなのは知っているが、メインの研究テーマにしたら卒業できないよ」と言われながら(笑)。博士課程に進んでからも、ロボットのAIをやりつつ、好きなことを自由にやっていましたねぇ。

博士課程修了後、松原は、AI研究において最も先端をいく電総研(通産省工業技術院時代)への入所を希望した。とはいえ、日本最大かつトップレベルの総合研究所への就職希望者は多く、松原にしてもすんなり入れたわけではない。加えてAI研究室も、毎年のようには研究者を採っていなかった。が、結果的に好機に恵まれたのは、画像の研究室が「AIに詳しい新人」を求めていたからである。

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大学院博士課程修了式の記念写真。
最後列右から3人目が松原氏

折悪く、前年に研究者を採っていたAI研究室には「枠がない」と。どこか企業の研究室にでも行こうかと考えていたところ、画像研究室でAI研究者を欲しがっていたんです。画像はやっていましたし、それで電総研に入れたのでラッキーでした。当時、AIはLispというプログラム言語を使っていて、この「Lispがわかる」ということが、僕のウリになったようです。AIを研究に加えるといっても、画像の世界ではほとんど使われていない言語でしたから。入所して早々に、研究室が何千万円もの予算を取って、Lispがすごく速く動く高性能マシンを購入したんですけど、使えるのは僕だけでしょう、実際は専用状態。責任は重かったけれど、今思えば、非常に恵まれた環境にありました。

それから組織の改変を機に、手を挙げて推論研究室に移ったのです。推論はやはり、AIのメインストリームですから。趣味的に続けてきた将棋の研究を〝表〞に出したのは、この頃です。30歳過ぎて、もう新人でもないし、「そろそろ言いだしてもいいかな」と。
当時、そんな研究テーマを掲げる研究者などいなかったので、僕が旗振り役になりました。90年頃の話ですからね、コンピュータ将棋で名人を負かすなどあり得ないと思われていたし、実際、AIは将棋の相手としてはボロボロだったんです。それが近年では、強豪のプロ棋士を破るほどの能力を持つまでになったのだから、感慨深いですよ。

ただ、本来のコンピュータ将棋の研究はこれからです。十分に強くなったので、次は人間を楽しませるために、そして、さらに将棋を発展させるために。AIはあくまで道具に過ぎず、何もプロ棋士と戦って勝ち誇るためにやっているわけではありません。今まで人間では見せられなかった高いレベルの将棋を、AIの助けによって実現させるとか、あるいは、いろんな実力に合わせていい勝負ができる〝接待将棋〞の手法開発とか、それを本格化するのが、次の研究ステージなんですよ。

将棋、サッカー、そしてAIによる小説。
様々な研究に挑む

コンピュータ将棋に次いで、松原は電総研時代に「ロボカップ」を立ち上げている。これも90年代初頭の話だ。
サッカーをAI研究のツールにすることには、周囲から反発もあったらしい。「ゲームなど不謹慎だ」と。しかし、長年にわたる研究成果は、ロボットによる大規模な災害救助などにも応用され、今やロボカップは、世界中から注目される大会へと育ったのである。

アメリカから帰ってきたばかりの北野宏明(工学博士)さんから、「何か面白いことをやりましょうよ」と声をかけられたのが入り口です。具体的な目標を設定して研究に臨むグランドチャレンジという勉強会をスタートさせ、例題を議論するなか、サッカーが案として出てきたのが93年頃でした。日本でもJリーグがスタートし、サッカーは世界中で人気のあるスポーツだからということで。何より、僕らはAIで〝日本発〞のものをやりたかったのです。この頃、「コンピュータがチェスで人間に勝利する時を迎えた」と、アメリカでのAI研究が注目を集めていた時代なんですけど、そこに追随するのは面白くない。それに、とかく日本の研究は外国のコピーだといわれがちでしょう、だからこそ、チェスの次の世界標準を日本発でつくりたかった。

ゲームとして、サッカーがかなり難しいのは確かで、多くのロボット研究者からは「時期尚早だ」と危ぶまれたものです。「何を考えているんだ」とか(笑)。実際のところ、最初は動いてくれるはずのロボットが全然まともに動かなかったし、「ロボットができること」を前提にルールをつくるなど、それはもう苦労の連続でした。北野さんや僕、数人が中心になってロボカップをスタートさせたのは97年。第1回大会は名古屋での開催でした。以来ずっと続いていて、今日では、世界最大規模のロボットイベントになっています。ここまで盛り上がるとは正直思っていなかったけれど、いろんな研究・開発者が手弁当で協力してくれたからこそ、今があります。将棋と同様、これも個人的な活動に近いのですが、電総研って、個人に自由を与え、好きにやらせてくれるところがある。その土壌にも、本当に感謝ですよね。

2000年、松原は、公立はこだて未来大学の開学と同時に教授に就任。
「情報科学を中核にしたまったく新しい大学をつくろう」――大学院時代の友人にスカウトされ、選んだ次の足場だ。カリキュラムの策定や教授集めなど、「自分たちでつくっていく」という気概で〝大学づくり〞に臨んで約15年。「情報系の分野で、日本におけるそれなりの地位は築けた」と手応えを得ている。そんな松原の目下最大の関心事は、人間の知性に近づくAI研究だ。

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人間の知性は理性と感性に分けられると思いますが、理性は、論理的思考とか複雑な問題を解く能力。過去60年間に及ぶAI研究の大半は、この理性を対象としてきたわけですが、そろそろ感性に踏み込んでもいいんじゃないかと思って始めたのが、AIで小説を書くという研究プロジェクトです。

NHKや民放のニュースでも大きく取り上げてもらいましたけど、今年、AIを使って書いたショートショート作品が、日経「星新一賞」の一次選考を通過しました。ストーリーのアイデアや枠組みは人間が与え、それをAIが文章化するもので、役割分担としては人間が8割を担っている段階ですが、AIが数千字に及ぶ〝意味のある文章〞を書くことができたのは、やはり快挙だといっていいと思います。

AIは今、とりわけ創作の分野で注目を集めており、それは難しい挑戦ではあるけれど、理性と感性の両方がそろわなければ、人間の知性に近づくAIとはいえません。一方で、急速なAIの発展を「人間に対する脅威」としてネガティブに捉えられる面があるのも事実ですけど、前述したように、AIはこれまで人間にできなかったことを実現する道具。創作活動においても、AIの補助によって、人間だけでは到達できない高みに行くことを理想に、この研究に取り組んでいるところです。

研究テーマは尽きず。
視線の先にあるのは、豊かな社会への貢献

松原は現在、AIの研究成果を人々の生活に直接適応させる案件にも取り組んでいる。今年7月には、ベンチャー企業「未来シェア」を設立。バスやタクシーなど、道路交通網における公共交通の利用要求に対し、リアルタイムに自動で配車を行う未来型交通システム「SmartAccessVehicle(通称:SAV)」の社会普及を促すもので、松原は同社の社長に就任した。

例えばスマホを使って「どこに、いつまでに行きたいか」を入力すると、同じ方向に誰かを乗せて走っている車が、ちょっと寄り道をして拾ってくれる。
AIがリアルタイムに最適な走行ルートを決定するこの技術を使えば、乗合車両の配車を無人で行うことができます。北海道は過疎地が多く、公共交通機関が先細っている状況を鑑みて発想したもので、産総研や名古屋大学と協働しながら進めてきました。配車のアルゴリズム自体はほぼできていて、函館で実証実験も済ませたところ。あとは法整備と、新しいサービスの出現につきものである地元の既得権益との戦いがありますが、少しでも早い実装に向けて、準備を進めているところです。

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2010年、プロ棋士とコンピュータ将棋の対戦が行われた。
記者会見の風景

さらには、「函館にITの日本酒蔵をつくろう」という活動もしていて、大学の副理事長になった今でも、相変わらず好きなことを自由にやっています。北海道でもせっかくいい酒米ができるようになったのに、道南には日本酒蔵がなくて、やっぱり函館にほしいよねと。まぁ僕自身が酒飲みだという話もあるんですが(笑)、函館に来た時から、観光を対象にしたAI研究も進めていて、少しでも観光の発展に貢献できればと願ってのことです。

僕はね、一つのことを深く長くやるタイプではないんですよ。同時並行的にいくつも研究テーマを抱えているほうが、どれも面白くできる。思えば子供の頃からそう。読書にしても複数の本を並行して読むというスタイルで、今でも読みかけの本は10冊以上というのが常です。数ページずつ読み替えるのが、何とも幸せ(笑)。先輩筋からは「もう少し研究テーマを絞ったほうがいいんじゃないか」と忠告を受けたこともあるけれど、それだと面白くなくなっちゃう。だから研究テーマは、いつも尽きないんですよねぇ。

「虐げられていた時代」からスタートした松原にとって、昨今のAI研究ブームは「ちょっとヘンな感じ」。マイナーだった研究がすっかりメジャーになり、どこかで違和感を覚えている。松原が本当にやりたいことは、独走状態にあるアメリカのAI研究を追いかけるのではなく、違う道を開拓し、日本が新しい領域で先手を打つことだ。

その一端として、僕は感性の研究を進めているつもりです。この第3次ブームで、遅ればせながらアメリカを後ろから追うグループも出てきましたが、やはりそこは違う道から攻めて、「見つけたこっちの水のほうが美味しいぞ」って言いたいじゃないですか。ブームの背景にあるのはディープラーニング(機械学習)が大きいわけですが、今さらグーグルの背中を追いかけるのも……もちろん重要な技術なのでキャッチアップする必要はありますけど、戦うとなったら無手勝流しかない。だってグーグルは、AI研究に年間1兆円かけているのに対し、日本はすべての分野の科研費合わせて3000億円ですからね。同じ土俵に立つのは無理ですよ。だったら一か八か、ゲリラ的であってもリスクを取ってでも、違うところで勝負すべきだと思うのです。

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公立はこだて未来大学の松原仁教授室。
鉄腕アトムのグッズがたくさん飾られている。

しかしながら、ブームのおかげで、AI研究をしたいという学生や若い研究者が増えているので、それはうれしいし、先が楽しみです。今はポスドク問題もあって、広義には研究者不遇の時代にありますが、何か一つでも、少し先にある「私はこれをしたい」を大切にして、続けてほしいと思うのです。
旬の時期にある研究者が雑事に追われるような状況は、我々が改善していかなくてはなりませんが、次代を担う研究者にも、内野安打ばかりでなく、時には一か八かの、つまりホームランか三振かぐらいの冒険をする気概は持ってほしい。人生のどこかで、その気概を発揮するのが、研究者のあるべき姿であると、僕は思っているんですよ。
※本文中敬称略

Profile

biographies01_3公立はこだて未来大学 副理事長 システム情報科学部 複雑系知能学科 教授 博士(工学)
松原 仁

1959年2月6日 東京都練馬区生まれ
1981年3月 東京大学理学部 情報科学科卒業
1986年3月 東京大学大学院 工学系研究科 情報工学専攻博士課程修了
   4月 通産省工業技術院
電子技術総合研究所入所(現産業技術総合研究所)
1993年9月 スタンフォード大学
滞在研究員(~94年)
2000年4月 公立はこだて未来大学教授
2016年4月 公立はこだて未来大学 副理事長

主な著書・共著など

『人工知能とは』(近代科学社)、
『コンピュータ将棋の進歩 6 プロ棋士に並ぶ』(共立出版)、
『鉄腕アトムは実現できるか』(河出書房新社)など、
著書、共著書多数

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